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水府倶楽部とは

水府倶楽部とは、茨城県立水戸第一高等学校(旧制水戸中学)硬式野球部のOB会の名称です。

水戸一高は、明治11年の創立で140年を超える歴史がある県内随一の伝統を有する学校です。

硬式野球部もその歴史は古く、明治24年の創部以来、これまで3回(旧制水戸中学時代も含む)の全国大会(甲子園)出場を誇ります。

​飛田穂洲先生

「一球入魂」

水戸一高の校舎から野球部が日々練習に励むグラウンドを見下ろす坂の頂には、選手として指導者として評論家として日本の学生野球の発展に多大なる貢献をしたことから“学生野球の父”と呼ばれる飛田穂洲先生の胸像が、現役生徒たちの奮闘を厳しくも暖かく見守ります。

「ひとつのものをつらぬくことのすばらしさ」で始まり「やわらかいゲンコツのような顔をすえたい」で結ばれるサトウハチロー氏による詩碑「飛田穂洲先生を偲ぶ」とともに、昭和42年1月に建立されました。

昭和62年7月、飛田先生生誕の地に生誕100年を記念して建立された「一球入魂碑」の碑陰には飛田先生の数々の功績が記されています。

以下、「一球入魂碑」碑陰より

「一球入魂碑」碑陰

先生は明治19年12月1日ここ常澄村大場に生まれ名は忠順(ただより)後年穂洲(すいしゅう)と号した。幼少にしてボールを握り明治35年水戸中学(現在の水戸一高)に入学、野球部の中心選手として活躍、同40年早稲田大学入学と同時に野球部に入り、ここで当時の安部磯雄野球部長との出会いがあり、その感化を強烈に受け『野球道』への終生の精進が始められたのである。大正2年 早大法学部卒業、同9年 母校早大野球部初代監督として招かれたのだが、その織烈を究める猛鍛錬ぶりは球界注目の的となり、ために早大野球部の光輝ある黄金時代が到来したのである。大正14年宿敵シカゴ大学を撃破、ようやく念願を達成して辞任、ときに38歳。翌同15年朝日新聞入社、以降野球記者として神宮あるいは甲子園球場のネット裏からの戦評随想などを交えて球児たちを奮起せしめる健筆を振るい続ける。勝者の奢りを戒め弱者をいたわる独自の格調高い先生の名談義は多くの人々 に深い感銘を与えたものである。また先生は生涯を通じてひたむきに白球を追う青少年の純真な姿をこよなく愛し激励し続けた。日本学生野球の充実と発展に尽瘁し、明治大正昭和の三代にわたって野球をプレイし、野球の神髄を教え語り、書いて野球道を守り抜いたその功績は偉大というべく誰しもの認めるところである。先生の遺した『一球入魂』なる名言はひとり野球人のみに限らず各界各人の口に語り継がれ、この精神は今後も永く球児たちの心の奥に生き続けることであろう。先生の業績の奥深さはこのほかにも昭和22年の大場村村長就任、同29年知道会(水中一高会)第2代会長への推戴、同31年の毎日スポーツ賞、翌年70歳を迎えての紫綬褒章、続いて同33年の朝日文化賞など幾多の受賞によっても窺える。昭和36年12月には栄誉ある「野球殿堂」入り(74歳)を果たされたが、同40年1月26日78歳を以て自宅に永眠。従五位勲四等に叙せられた。遺著としては「ベースボール攻撃編」「同守備編」「野球人国記」「熱球三十年」「野球清談」「穂洲漫筆」「進め野球の大道」「野球は無私道なり」など数多い。昭和41年6月日本野球協会等によって戸塚球場に、また翌年3月水戸一高校庭にも胸像が刻まれ、記念誌発刊。同53年11月18日には13回忌記念全早慶戦を県営球場にて開催。同61年11月30日は生誕百年記念式典を水戸一高にて、水戸市民球場では全早慶戦を挙行するなど、亡き先生を偲ぶ数々の行事が繰り展げられたが、このたび先生の御遺徳を揺るぎなく承け伝えるため由緒深い生誕の地にこの顕彰碑を建立するものである。

昭和62年7月吉日

茨城県
常澄村
茨城県教育委員会
常澄村教育委員会
知道会
稲門クラブ
水府クラブ
茨城県高校野球連盟

飛田穂洲生誕の地に立つ一球入魂碑
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